忠臣蔵が好きな人は是非訪れたい場所のひとつが、この吉良邸跡

さとう
忠臣蔵と言えば、吉良上野介の憎たらしさがドラマでは引き立ちますが、実際は領民にとっていい領主だったとも言われています。
物語は史実とは違うもの。
改めて考えると、逆恨みされ暗殺集団からお礼参りに押し入られ殺された可哀そうな人であったとも考えられます。
討ち入り自体も、赤穂の浪人の就職活動でもあったという説もあるようですし・・・・・・。
兎にも角にも、ここでは歴史の息吹を感じました。
ちなみに、旧暦の12月は新暦の12月の気候とは異なると考えるのがよいでしょう。

さとう
江戸から明治の改暦 | 日本の暦 明治5年(1872)11月に太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を発表し、「本来ならば明治5年12月3日が、新しい暦では明治6年1月1日になってしまった」つまり、明治5年(1872年)は12月3日が翌年の1月1日になっています。
これからが現在の歴と同じとなります。
元禄十四年は閏八月のあった年で、旧暦の十二月十四日は、新暦に換算すると、翌1703年の一月三十日となり、江戸でも雪が降る寒い季節になります(国貞作品参照)。
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西733間(約134m)、南北は34間(約63m)あり、坪数2,550坪(約8,400㎡)と諸書に記されています。吉良上野介が近藤登之介の屋敷跡を拝領したのが元禄14年(1701)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが同16年(1703)2月4日ですから、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。
もともと吉良邸は鍛冶橋にありましたが、1698(元禄11)年の大火で焼失(元禄の大火で消防の指揮をとっていたのは播磨赤穂藩主・浅野内匠頭)。
呉服橋で再建したのが討ち入りにあった吉良邸ではなく、江戸城・松の廊下での殺傷事件の後で、呉服橋の吉良邸を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移っていたのです。
呉服橋で再建したのが討ち入りにあった吉良邸ではなく、江戸城・松の廊下での殺傷事件の後で、呉服橋の吉良邸を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移っていたのです。
現在、吉良邸跡として残る本所松坂町公園は、当時の76分の1にすぎませんが、地元両国3丁目町会有志会が発起人となって、邸内のいわゆる「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、昭和9年3月東京市に寄附し、これによって貴重な旧跡が維持されました。なお、区移管は昭和25年9月です。公園の周囲にある高家を表すなまこ壁の、長屋門を模した高さ2mのコンクリート壁と門とが、わずかに当時の模様を偲ばせます。
吉良上野介の息子(弾正大弼綱憲)は母の実家の上杉家を継いでおり、その次男は吉良左兵衛義周として吉良家を継ぐという形。
吉良家の悲劇もまた考えさせられるものがあります。
ちなみに浅野内匠頭は、秀吉の親類筋の子孫の傍流となります。
吉良邸跡/本所松坂町公園
〒130-0026 東京都墨田区両国3-13-9
JR総武線両国駅より徒歩圏内






