吉良邸に討ち入り後に赤穂浪士たちが行きついたのは、ここ泉岳寺
訪問時は、赤穂義士記念館(2026年5月現在:大人 500円/中高生 400円/小人10歳以上 250円 赤穂義士記念館と義士木像館は共通券)も見学しました。
赤穂浪士好きには、こことお墓参りは必須でしょう!
首洗い井戸を通り、赤穂浪士のお墓の方へ
お墓の位置関係を確認しながら
預けられた大名により、赤穂浪士のお墓が配列されています。
二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書。(公式サイトより)
中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建、昭和7年に大修理。「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書。(公式サイトより)
ご本尊は釈迦牟尼仏、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められています。(公式サイトより)
萬松山泉岳寺は曹洞宗の寺院。
慶長17年(1612年)、今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建。
門庵宗関和尚(1546年~1621年)を迎えて開山。
宗関和尚・・・・・・曹洞宗の第4代瑩山禅師開創の総持寺の門派である太平山大中寺(栃木県)の11世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟、今川義元の孫と云われる人物
・山号の萬松⼭は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意
・寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記
寛永18年(1641年)の大火によって伽藍が焼失。
3代将軍家光(1604年~1651年)の命により現在の高輪の地に移転再建(一説に移転は正保年間〈1644年~1648年〉)。
毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷(みずのや)の五大名が尽力して完成したその因縁により、爾後この五大名が共に檀越となり外護の任。
江戸時代
・曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺・総泉寺・泉岳寺)の一つとして、大僧録たる関三刹(埼玉県龍穏寺・千葉県総寧寺・栃木県大中寺)の下、特に本寺大中寺の下で触頭として曹洞宗の行政面の一翼。
・吉祥寺旃檀林・青松寺獅子窟とならぶ江戸三学寮の一つとして重きをなし、宗内外の碩学によって仏典・祖録・漢籍等が講じられ、曹洞宗僧侶の養成に寄与。山門から中門の両側には出身地別の九棟の寮舎が並び、常時200名程の学僧が修学。
赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから、元禄15年の義挙(1702年12月14日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約50年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参詣者が訪れるように。
現存する山門は天保年間に当寺34世大道貞均和尚によって建立。
二階には釈迦三尊及び十六羅漢が安置され、一階中央天井には我が国彫金の名匠、関義則の龍蟠が嵌め込まれています。
明治初期
廃仏毀釈の余波にて、荒廃を余儀なくされるも、40世圓頓霊巌和尚の地道な努力と創意工夫とによって本堂、庫院を恢興し、また煉瓦造りの義士宝物館を創設し、既存の石巒師資制作の義士像を展示する木像堂と共にこれらを公開することによって広く衆望を集めて寺運の再興を果し、次代の41世普天霊明和尚がこれを継承して関東大震災に崩壊せる義士宝物館を再建、書院を新築して、寺域の拡張・整備に努め、明治・大正・昭和に跨る当山の隆昌期が築かれました。
第二次世界大戦の戦渦に遭遇
山門・義士館(旧義士館=現講堂)以外の諸堂が焼失。
42世祖天凖爾和尚は戦後の苦境の中に諸堂の再興を発願し、昭和28年(1953年)に本堂の再建、以後これが継承されて現在に至る伽藍・境内等の整備が戦後復興の一環として続けられています。
義士討入り300年を記念し、浄財を募って浅野家の塋域(史蹟)を整備し、新たに赤穂義士記念館(平成13年開館)を建設して、寺宝と共に大石良雄の書状をはじめとする赤穂義士関係の資料を展示。~下記ウェブサイトより~
萬松山 泉岳寺から徒歩圏内にある大石内蔵助切腹の地
吉良邸跡は、両国駅から
浅野内匠頭終焉の地と言えば、切腹最中










