桃山時代末の文禄4年(1595年)に創設、約400年の歴史のある善國寺
この日はゆっくりとホテルを出て、JR飯田橋で降りて、神楽坂を登り裏手でランチ。
その後、向かうは江戸の三大毘沙門の1つです。
阿吽の虎(嘉永元年⁻1848年に寄進)に迎えられてお寺の境内に入ります。
毘沙門堂で参拝後に御朱印をもらいました。
日蓮宗なので、御朱印と別に御首題もあり(これは知りませんでしたー下記ご参照)
今思うと、手を合わせたのは毘沙門天でないようで・・・・・・。
御開帳日は「虎の月の虎の日」なので訪れた日はそれに当たらず、お堂内で毘沙門天を見たつもりでいましたが、自分たちが見た2体の仏像は何だったのか?
ウェブサイトより抜粋
初代住職は佛乗院日惺上人(池上本門寺の十二代貫首を務めた経歴)。
上人は二条関白昭実公の実子であり、徳川家康公とは父を通じて親交。
上人は京都での学びの後、本門寺貫首として迎えられ、天正18年(1590年)、家康公が江戸城に移った際に再会。
上人は、祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷。
それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、毘沙門天を奉安される。
ーーー
光圀公も、善國寺の毘沙門天様に信をお寄せになり、寛文10(1670)年に焼失した当山を麹町に移転し、再建。
徳川ご本家、並びにご分家の三卿郷のうちの田安・一橋家の祈願所となった。
*ウェブサイトでは、三卿を三郷と記載(理由は不明)
当山はその後も享保、寛政年間と類焼の厄にあい、殊に寛政4(1792)年の火事により、当、神楽坂へ移転(麹町には、麹町三丁目交差点の脇の歩道に黒御影の『善國寺谷跡』の石碑あり)。
ーーー
江戸の三毘沙門の随一として、《神楽坂毘沙門天》の威光は倍増。
当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、善國寺の移転に伴い、麹町より、よしず張りの店が九軒当寺の門前に移転。
除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街に変化。
ーーー
明治・大正初期には、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客達がこの辺りを闊歩し、大いに賑わった。
特に縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたし、山の手銀座と呼ばれるほど有名を馳せ、その混雑ぶりはまさに東京の縁日の発祥の地にふさわしいものであった。
ーーー
昭和20年の東京大空襲は、首都を火の海と化し、当山も灰燼に。
同26年には毘沙門堂を再建、46年には本堂・毘沙門堂が完成し復興。
初代住職は佛乗院日惺上人(池上本門寺の十二代貫首を務めた経歴)。
上人は二条関白昭実公の実子であり、徳川家康公とは父を通じて親交。
上人は京都での学びの後、本門寺貫首として迎えられ、天正18年(1590年)、家康公が江戸城に移った際に再会。
上人は、祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷。
それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、毘沙門天を奉安される。
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光圀公も、善國寺の毘沙門天様に信をお寄せになり、寛文10(1670)年に焼失した当山を麹町に移転し、再建。
徳川ご本家、並びにご分家の三卿郷のうちの田安・一橋家の祈願所となった。
*ウェブサイトでは、三卿を三郷と記載(理由は不明)
当山はその後も享保、寛政年間と類焼の厄にあい、殊に寛政4(1792)年の火事により、当、神楽坂へ移転(麹町には、麹町三丁目交差点の脇の歩道に黒御影の『善國寺谷跡』の石碑あり)。
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江戸の三毘沙門の随一として、《神楽坂毘沙門天》の威光は倍増。
当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、善國寺の移転に伴い、麹町より、よしず張りの店が九軒当寺の門前に移転。
除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街に変化。
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明治・大正初期には、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客達がこの辺りを闊歩し、大いに賑わった。
特に縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたし、山の手銀座と呼ばれるほど有名を馳せ、その混雑ぶりはまさに東京の縁日の発祥の地にふさわしいものであった。
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昭和20年の東京大空襲は、首都を火の海と化し、当山も灰燼に。
同26年には毘沙門堂を再建、46年には本堂・毘沙門堂が完成し復興。